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恋に落ちる瞬間、みたいなのを書いてみたかったのです。


落ちる (千×神)

「神尾。お客さんだ」
そう言って橘さんが部室のドアを開けた。
着替えの手を止めた俺は、思わず聞き返す。
「え…?誰ですか?」
夕方の部室棟にまで顔を出す物好きを俺は知らない。
たまに杏ちゃんが橘さんを迎えに来るくらいで、誰かがテニス部を訪ねてくるなんて殆ど無いのだ。
「こんにちは!」
橘さんの横から、明るい髪の毛が覗きこむ。
「千石さん!?」
白い学ランにオレンジ色の髪。
ついこの間、関東大会で対戦したばかりの千石さんがにこやかに手を振る。
「どうしたんですか!?」
思ってもみない訪問者。
部員皆が不思議顔で俺と千石さんを見比べる。
そんな顔で見られても…。俺の方が聞きたいくらいだ。
「急にごめんね~★思い立ったら吉日って言うでしょ?」
「…」
話が全く掴めない。
「だ・か・ら!偵察にきちゃいました♪」
「…」
何がだからなのだろう…。
「…負けたくせに、今更偵察ですか…」
隣に立つ深司がボソっと呟く。
「!?深司!」
いくらなんでも年上に向かってそれは失礼だ。
焦る俺をよそに、千石さんは全く気にした様子ではない。
「ん~まぁ、偵察って言ってもテニスじゃなくて」
むしろ楽しそうな表情。
「恋のライバル偵察でっす!」
「恋!?」
皆の声がハモる。
だって意味が分からないだろう?
恋だなんて。
「俺、神尾くんの事好きになっちゃいました!」
「なっ!?」
突然の告白に俺は息をのむ。
だって、ほとんど話した事ねーし!
しかもそんな、あっけらかんと言われても…。
「…やっぱりね…。嫌な予感がしたんだよね…。試合の後、千石さんの神尾を見る目が違ったし…。こんな所まで押しかけて図々しいよね…」
「わーっ!深司!!」
突如始まったぼやきに、俺は慌ててその口を塞ぐ。
あんまり失礼な事言うなよ!
この状態じゃ、俺これから千石さんと話せざるを得ないんだからさぁ。
「おもしろいね♪伊武君」
千石さんは相変わらずだ。
「と、とりあえず!千石さん場所かえて話しましょうか!」
何で俺がこんな気を使わなきゃならないのか。
「うん。いいねー!じゃ部員のみなさんお邪魔しました」
さっさと部室を後にする千石さん。なんだろうあの奔放さは…。
「…じゃ悪ィ。深司の事よろしく!」
口を塞いだままの深司をそばにいた石田に押し付けると、俺は自分の荷物を担いで千石さんの後を追った。

それで一体。
何でこんなことになっているのか…。
あの後、前を歩く千石さんは見知らぬ土地だろうに、なぜか迷うことなくバスに乗り、今こうしてストリートテニスコートにいる。
青学にも偵察に来たことがあるって桃城も言ってたし、案外色々歩きまわってるのかもしれない…。
結局、暗くなってボールが見えなくなるまで打ち合ってしまった。
「…はあッ、疲れた~!でも楽しい!」
千石さんはラケットを放りなげて、コートに座りこむ。
「はあっ…、そんな格好で、よく出来ますね!」
俺はジャージを持っていたから着替えたけど、千石さんはシューズを履き替えただけの白ラン姿だ。
「制服、汚れますよ」
コートにベッタリと座り込む千石さんは全く気にしていないようだ。
「この色だからね~。今更綺麗に着る事は諦めてるよ」
そう言って笑うと俺の方を見る。
「それより、神尾くん。右足痛いでしょ?」
…何で分かったんだろう?
部活中に軽く靴擦れしたのを手当する前に千石さんが来てしまい、慌てて部室を出たものだからすっかり忘れていたのだ。
さっき思い出したけど、ラリーが楽しくてつい打ち続けてしまった。
「そんなに酷くないんで大丈夫です」
そう笑ったけど、千石さんは珍しく真面目な表情で首を振る。
「だめ。これから全国なんだよ。ちょっとの怪我が命取りになる。そこの水道で洗おう?」
やっぱり年上なんだなーと思う。
言い含めるような声に俺は頷いた。

「ああ、大した事なくて良かった。怪我させたら、神尾くんを潰しにきたのかって橘くんに怒られちゃうよ」
「…そんな事はないと思うけど…」
水道で丁寧に滲んだ血を洗い流すと、ラケットバックから出した絆創膏を踵に貼ってくれる。
ベンチに腰掛ける俺の足元に屈んだ千石さんは、試合中にも見せなかったような大人びた表情を見せる。
楽しくてすっかり忘れていたけど…。
『俺、神尾くんの事好きになっちゃいました!』
なんて、言ってたことを思い出す。
明るい時に聞いたときは、面白い人だし言う事も少し変わってるのかなと思って気にもしなかったけど。
日が沈んだコートで二人きり。
あの台詞を思いだすと、急に本音を帯びて感じるから不思議だ。
千石さんがこんな見た事も無い、大人みたいな顔するから…。
ドキドキしてしまう。
「ありがとうございました…」
ドキドキが声に出ないように気をつけてお礼を言うと、千石さんは手当の終わった足を優しく撫でた。
「千石さん…?」
「…小さな足だね」
「…そ、うですか?」
何だか、さっきよりも低い声。
上から見下ろすと表情は影になって…少し、怖い。
「可愛くて、綺麗な足だ…」
「き、綺麗なんかじゃない…」
どうしよう。
なんかよく分からないけど、このままじゃいけない気がする。
あたりの静寂が、急に気になる。
「あっ、あの千石さん!」
「…なに?」
「…えーと…」
…な、何言えばいいんだろう。
どうしたらいいのか、分からない。
俺がうろたえてるのは気付いてるはずなのに、千石さんは俺の足を放してくれない。
手当してもらったのに、放してくださいって…失礼だよな。

違う。そうじゃない。
そんなのはいい訳で、俺が今まで知らなかったこんな雰囲気の、この先が。
俺は、知りたいのかも…。

「…爪も小さくて、可愛いね」
どうしよう。
ドキドキが止まらない。
胸が破裂しそうって、こーゆーのを言うのかな?
俺は深呼吸するみたいに大きく息を吸った。
「…ぁ」
声が漏れる。
溺れているような息苦しさ。
千石さん…。どうしよう。
「たまんないな…。君のそんな顔…」
千石さんがフッと笑った。
「もっと見せてよ…」
そう言って、千石さんは俺の足に自分の唇を寄せる。
「!?」
目を見開く俺の表情を確かめると、今度はその視線を逸らさずに。
小指の先を舌で触れる。
「っ!」
今度は声にならない。
苦しくて声にならない!
俺が自分の両手で口を塞ぐのを、千石さんは楽しそうに眺めてる。
そして、そのまま…。
俺の足の小指を口に含んだ。
「ンっ!!」
どうしよう!
変な声が出ちゃう!
視線はずっと俺の表情を捉えたまま。
でも、その舌は俺の小指を飴玉のように転がす。
どうしよう。どうしよう!
怖い、怖い、こわい…。
こわいよ。千石さん。
「…こわいよ」
震える声は、千石さんにどんな風に聞こえてるんだろう。
俺は自分の声が、知らない人の声みたいに聞こえた。
「…怖くないよ。神尾くん」
「こわいよ」
「何が怖い?俺?」
違う。俺は首を振る。

違うんだ。胸が、俺の心臓が。
壊れてしまいそうなのが怖いんだ。

「そう、胸だね」
俺が口を覆っていた手で胸元を抑えると、千石さんは俺の足をシューズに下ろし、微笑みながら俺の胸に耳をあてる。
「…あぁ、大丈夫」
そして、耳を寄せながら俺の肩を優しく撫でる。
「…これはね、怖いんじゃない。恋の音だ」
「!?」
千石さんの言う事はよく分からない。
でも、千石さんが近づけば近づくほど鼓動が大きくなる。
ねえ、俺は千石さんを好きになっちゃったの?
試合で数回会っただけの人を。
ちゃんと話したのだって、今日が始めてなのに。
千石さん…。
「…どうしよう」
分からなくて涙が零れる。
「…どうすればいい?」
そうだね…、と思案顔の千石さん。
知ってるよ。
そんな顔して、本当は全部わかっているのに答えをはぐらかすんだ。
「千石さんっ!」
また涙が零れる。

本当は俺だって分かってる。
これからどうしたいか。
でも、勇気がないから。
こんなの、初めてだから。
千石さんに言って欲しい。
会った時間なんて、会った回数なんて、関係ないって…。

「神尾くんに言わせたかったんだけどな…。今回は許してあげる」
俺の涙を指で拭う。
「それじゃあ、今から…」
その指で俺の唇に触れる。
「キスをして、恋に落ちよう」
涙に濡れる俺の唇に、千石さんの熱く乾いた唇が荒々しく重なった。 

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